プレイングとプランニングに関する話
2014年3月15日 MTGに関する話この前ツイッターで少し話題になったことの自分的まとめ。引用っぽいとこもあります。
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■ プレイングという多義語
MTGを強くなりたい。この願いを抱いたときに、何を意識するだろうか。
強いカードはある程度お金を出せば手に入る。この世界は漫画ではなく、現実世界であり世界で所持者が片手で数えるほどの伝説のカード等存在せず皆簡単に同じ舞台に立つ事ができる。
強いデッキは自分の手で作り上げることも可能であろう。しかし、この情報化社会少し探るだけでデッキにも様々な選択肢が提示される。そして大会の優勝者は皆オリジナルというわけではなく、あなたが使ったことのあるデッキと数枚しか変わらないことなど珍しく無い。
同じカード、同じデッキを使いながら何故差が付くのか。
この点を運と称して、投げ出さないときに用いる単語に「プレイング」がある。
この単語が表す意味は非常に多岐に渡っている。ゲーム中に行われる行動全てを指していると言っても良い。この状況ではプレイングを磨くと言ったときに、その方法論が一切見えず、ただ我武者羅に練習をする以外の解決策を与えてくれない。
そこでプレイングという言葉を少しだけ狭い言葉にすることで、自分の抱えている問題や試合後の考察への深みを増すことが可能にならないだろうか。
■ プレイングとプランニング
「実際のプレイにはプレイングとプランニングが存在する」
twitterで有名プロが呟いていた。自分が考えていたことにピタリと当てはまった。この意見を起点に話を進めていく。
N田とはMTGは頂上に登るまでに様々なルートが存在する山登りのようなものだ、という話をしたときにそれを強く意識した。そしてその中でMTGには大きく二つの能力が必要とされる、という話になった。
一つは、登るにあたってどのルートを辿る必要があるのかを決定する力。
もう一つは、決めたルートをしっかりと辿る力。
ゲームを始めるにあたり、私たちはこの山をどのルートを通って登っていくか決めている。そこから様々な障害が訪れるたびに実際に道を変えながら最速で山を登ることを意識するが、そのためにコンパスや地図等の様々な情報を駆使している。
どのように登るか、これがプランニングに当たる。これは互いに60枚のデッキを並べたときに仮決定が下される。その後、現在の状況に応じて適宜変更が加えられていく。
実際にどのように登ったか、これがプレイングに当たる。これは現在の状況に加え、プランニングが影響を及ぼし、実際の選択肢に影響を与える。
私たちがプレイングと一言でまとめていた言葉は実際には二つのレイヤーに分かれている。
つまり、本来プレイが選択されるまでのフローはこうなっている。
現在の状況と想定される相手のデッキ構成と自分のデッキ構成から、取るべきプランの更新が行われる。
その更新結果に現在の状況が新たに付加され、実際のプレイとして選択が行われている。
様々な情報が与えられて突然実際のプレイが生まれるわけではない。重要なのはプレイに先立ってプランが生成され、プレイはそこから演繹された結果に過ぎないということだろう。プレイはプランによって導かれるべきであり、プランの存在しないプレイはすべきではない。
■ プランからのプレイ
ここでプランによりプレイが変化する例示を出してみよう。勿論、極端かつ恣意的だ。
あなたの場には4/4、相手の場には3/3がいたとする。このとき相手の3/3が4/4に向かって殴ってきた。
あなたの手札に確定除去があったとする。
あなたはブロックに入り、相手が巨大化を打ち込んでも、除去でいなし1:2交換を得た。このときのブロックは恐らくプレイとしては決して間違っていない。
しかし、その結果コンバット後に出てきた1/1接死を超えることが出来ず、ぐだぐだとゲームが長引き、トップデッキ勝負に負けてしまう場合があるかもしれない。
そして、あなたは自分の引きを神に呪い、相手の引きに文句を言う。
もし仮にあそこのアタックをスルーし、1/1接死に除去を当てることが出来たら勝っていたかもしれなくても、だ。
一見何の間違いにも見えないこの行動を否定するにはプランニングが必要だ。手札のカードは「クリーチャーを破壊する」という効果を持っているが、「何のために破壊するのか」という目的は私たちが決めなければいけない。自分のライフを守るためなのか、はたまたカードアドバンテージを得るためなのか。カード全てが一つの目標に対し、一致したときそれは最大の結果を生み出すだろう。逆にこの不一致は無駄なリソースを稼ぐことにつながってしまう。
今回の例では「カードアドバンテージよりもライフアドバンテージよりも相手ライフを0にすることを目指す」というプランが存在したとき、手札の除去は1:2交換をとるカードではなく、「相手ブロッカーを排除する」という目的を手に入れる。
一見して、結果論に見えるところの背景にはプランの存在しないプレイによる無駄なリソース獲得があったのかもしれない。
■ まとめ
プレイングと言う名のブラックボックスは大きく二つのレイヤーが存在している。
プランニングとプレイング。プランニングはリソースの配分方法を決め、カードにその目的を与えること。プレイングはその判断に従い、実際のカード選択を行うこと。
試合に負けたとき、そのまずいプレイはプランに問題があったのか、実際のプレイに問題があったのかを切り分けることは成長するための思考としては有意義かと思われる。
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やっぱり重要なのは行動に意味を与える行為だなぁ、と思ったり。
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■ プレイングという多義語
MTGを強くなりたい。この願いを抱いたときに、何を意識するだろうか。
強いカードはある程度お金を出せば手に入る。この世界は漫画ではなく、現実世界であり世界で所持者が片手で数えるほどの伝説のカード等存在せず皆簡単に同じ舞台に立つ事ができる。
強いデッキは自分の手で作り上げることも可能であろう。しかし、この情報化社会少し探るだけでデッキにも様々な選択肢が提示される。そして大会の優勝者は皆オリジナルというわけではなく、あなたが使ったことのあるデッキと数枚しか変わらないことなど珍しく無い。
同じカード、同じデッキを使いながら何故差が付くのか。
この点を運と称して、投げ出さないときに用いる単語に「プレイング」がある。
この単語が表す意味は非常に多岐に渡っている。ゲーム中に行われる行動全てを指していると言っても良い。この状況ではプレイングを磨くと言ったときに、その方法論が一切見えず、ただ我武者羅に練習をする以外の解決策を与えてくれない。
そこでプレイングという言葉を少しだけ狭い言葉にすることで、自分の抱えている問題や試合後の考察への深みを増すことが可能にならないだろうか。
■ プレイングとプランニング
「実際のプレイにはプレイングとプランニングが存在する」
twitterで有名プロが呟いていた。自分が考えていたことにピタリと当てはまった。この意見を起点に話を進めていく。
N田とはMTGは頂上に登るまでに様々なルートが存在する山登りのようなものだ、という話をしたときにそれを強く意識した。そしてその中でMTGには大きく二つの能力が必要とされる、という話になった。
一つは、登るにあたってどのルートを辿る必要があるのかを決定する力。
もう一つは、決めたルートをしっかりと辿る力。
ゲームを始めるにあたり、私たちはこの山をどのルートを通って登っていくか決めている。そこから様々な障害が訪れるたびに実際に道を変えながら最速で山を登ることを意識するが、そのためにコンパスや地図等の様々な情報を駆使している。
どのように登るか、これがプランニングに当たる。これは互いに60枚のデッキを並べたときに仮決定が下される。その後、現在の状況に応じて適宜変更が加えられていく。
実際にどのように登ったか、これがプレイングに当たる。これは現在の状況に加え、プランニングが影響を及ぼし、実際の選択肢に影響を与える。
私たちがプレイングと一言でまとめていた言葉は実際には二つのレイヤーに分かれている。
つまり、本来プレイが選択されるまでのフローはこうなっている。
現在の状況と想定される相手のデッキ構成と自分のデッキ構成から、取るべきプランの更新が行われる。
その更新結果に現在の状況が新たに付加され、実際のプレイとして選択が行われている。
様々な情報が与えられて突然実際のプレイが生まれるわけではない。重要なのはプレイに先立ってプランが生成され、プレイはそこから演繹された結果に過ぎないということだろう。プレイはプランによって導かれるべきであり、プランの存在しないプレイはすべきではない。
■ プランからのプレイ
ここでプランによりプレイが変化する例示を出してみよう。勿論、極端かつ恣意的だ。
あなたの場には4/4、相手の場には3/3がいたとする。このとき相手の3/3が4/4に向かって殴ってきた。
あなたの手札に確定除去があったとする。
あなたはブロックに入り、相手が巨大化を打ち込んでも、除去でいなし1:2交換を得た。このときのブロックは恐らくプレイとしては決して間違っていない。
しかし、その結果コンバット後に出てきた1/1接死を超えることが出来ず、ぐだぐだとゲームが長引き、トップデッキ勝負に負けてしまう場合があるかもしれない。
そして、あなたは自分の引きを神に呪い、相手の引きに文句を言う。
もし仮にあそこのアタックをスルーし、1/1接死に除去を当てることが出来たら勝っていたかもしれなくても、だ。
一見何の間違いにも見えないこの行動を否定するにはプランニングが必要だ。手札のカードは「クリーチャーを破壊する」という効果を持っているが、「何のために破壊するのか」という目的は私たちが決めなければいけない。自分のライフを守るためなのか、はたまたカードアドバンテージを得るためなのか。カード全てが一つの目標に対し、一致したときそれは最大の結果を生み出すだろう。逆にこの不一致は無駄なリソースを稼ぐことにつながってしまう。
今回の例では「カードアドバンテージよりもライフアドバンテージよりも相手ライフを0にすることを目指す」というプランが存在したとき、手札の除去は1:2交換をとるカードではなく、「相手ブロッカーを排除する」という目的を手に入れる。
一見して、結果論に見えるところの背景にはプランの存在しないプレイによる無駄なリソース獲得があったのかもしれない。
■ まとめ
プレイングと言う名のブラックボックスは大きく二つのレイヤーが存在している。
プランニングとプレイング。プランニングはリソースの配分方法を決め、カードにその目的を与えること。プレイングはその判断に従い、実際のカード選択を行うこと。
試合に負けたとき、そのまずいプレイはプランに問題があったのか、実際のプレイに問題があったのかを切り分けることは成長するための思考としては有意義かと思われる。
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やっぱり重要なのは行動に意味を与える行為だなぁ、と思ったり。
先手と後手に関する話
2014年1月18日 MTGに関する話最近抱いていた疑問、先手ってどのくらい有利?
基本的に自分の中にある大前提というのは成長を妨げる原因になるので、少なくとも前提ではなく納得した形で保存したいですね。
いつもなら自分の中で答えが出来てから書くのですが、今回はよく分かりません。
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■ プレイ or ドロー
ダイスロールであなたは勝利しました。
先手にしますか?後手にしますか?
少なくとも僕の前に座った人の99%は先手を取っていた(過去1度だけ後手を取られたことがある)
また「今日は全然ダイス勝てないよー」と、ダイスロールの敗北は「不運(マイナス)」の表現を持って使われる。
このことからも「MTG(構築戦)は先手が有利である」というのは大前提というのが共通認識だろう。
今回はその大前提の例外である「後手を取る可能性」について話してみたい。
■ 本当に先手は絶対有利なのか?
最近PTQを抜けた、そこのスイスラウンドの結果は7-1-1だが、この日のダイスロールの結果は2-6であり、負けた試合は先手のときであり、逆に後手勝率は100%となっている。
この結果を含め、最近黒単をよく回していたが、先手後手による有利・不利をあまり感じなかった。
ここで、一つの試みを行ってみた。実際の大会結果の先手後手勝率を出すことである。
基本的に自分は先手後手を記録していないため、代わりにDNの大会記録に先手後手と勝敗を記録しているユーザー一人の過去ログを漁り、その人の先手勝率と後手勝率を調べてみた。(本人許可を得ていないし、得るのも面倒なので誰のDNかは伏せる)
所詮目安程度なので数は少ないが合計54戦を調べてみた。そのうち先手が33回、後手が21回。使っていたデッキは早いアグロ(特に先手有利が提唱されそうなデッキ)ではないとだけ述べておく。
先手勝率 23 - 10 (69.6%)
後手勝率 14 - 7 (66.6%)
この数値の意味の無さを述べておく。
・デッキの構成や当時のメタゲーム等の前提の異なるデータの混ぜ合わせであること
・サンプル数が少なすぎること
そういった問題点全てを廃した上で数値だけを見ると、大体差は3%。因みに後手が 16-7の場合69.5%となるため、ここから後手で2連勝するとほぼ同じ確率になる。思った程大きな差にならなかった。それでも多少は先手有利なのだろうか。
■ 先手絶対有利論はどこから来るのか
先手
・先に高いマナ域に到達出来る
・先にコンバットを行える
後手
・先にカードを引ける
-----
先手有利論は何故ここまで一般的になったのか、その理由として思いついたのは「先手有利は非常に説明しやすさ」があるからだと思う。
・互いに除去の無い先出し《群れネズミ》
・黒単先手なら相手ハンドの《ボロスの反抗者》を抜くことが出来る
・《審問官の使い魔》の存在
etc
先手側が有利な状況を挙げてみろ、と言われたときに挙げられる例示は他にもたくさんある。
では、後手が有利な状況を挙げてみろ、と言われたときにそれはパッと思いつかない。
「互いに消耗戦になり、トップ勝負になったとき」と言う具体性の無い漠然とした表現になってしまう。
この後手有利説の具体性の低さが先手有利説を更に推し進めてしまっているのではないかと感じている。
「相手の先手思考囲いでこちらの囲いを落とされ、ネズミを出され、こちらもネズミを出し返したものの負け」
黒単なら味わったことがある負け方の一つかもしれない。
これは先手有利説を推し進めるものだ。
しかし仮に、こちらのハンドに除去が複数や2枚目の囲いがあった、場合によっては後手のドローでトップデッキをし、無事相手の群れネズミに当てられたとする。
その瞬間、両者に明確な差は無くなる、それどころかカード1枚多く保有する後手の方が有利と言える。1:1交換を繰り返した先、そこにあるのはカードを1枚多く引いている後手の勝利だ。
だが、先ほどの状況は確かに後手が僅かに有利と言える。
しかしここから先手が勝っても誰も驚かないだろう。そのくらい後手の有利は微妙なものだ。
後手有利説が全く出てこない理由の一つ。
「先手の有利はゲームを決めるが、後手の有利にはそれがない」
後手の有利は具体的な盤面ではなく、長いゲームプランの上の方針として存在する。
だからこそ、人には伝えにくいし、伝わらない。そして、先手での勝利(後手での敗北)は具体的な盤面や状況を残すため印象に残りやすい。一方、後手の勝利はトップ勝負に勝った、という形で置換されてしまう。
■ 後手を取る(1)
後手のメリットで分かりやすいことはキープ時にデッキトップの更に1枚にまで期待ができることだ。
その利を生かし、後手を取ることが一般的な戦いが存在する。
重コントロール対決だ。
序盤の1マナに特に意味も無く、淡々と土地を並べ続けることが要求される。
その上で必要なのは後手のワンドローというのは非常に分かりやすい。
■後手を取る(2)
そういった重コントロール同型以外に後手を取るときは存在するだろうか。
僕は過去数度意図的に後手を取ったことがある。その一つを例示したい。
当時環境最速のデッキだった感染。このデッキで後手を選択した。相手は同型だった。
感染と言うと、2killすら可能な最速のデッキ。そこで後手を選択したことには自分なりの理由がある。
墨蛾、マンバ、マイアは全てはらわた打ち、四肢切断で対処可能だ。メリーラ、呪文滑りなど対処しないとゲームが進まないカードも存在する。また感染特有の能力により基本的にクリーチャーは相打ちに持ち込むことが可能だ。
そして互いに非常に軽いため、後手が何も出来ずに死んでしまうパターンは非常に少ない。
そのため、エルフは相打ち、メリーラや滑りには四肢切断、そしてそれを守るカード、といった形でゲームは互いに手札のカードを1:1で交換し続ける形になる。
互いにカードを1枚ずつ交換し続ける状況。これこそが後手を選択する瞬間となる。
この戦いに存在する勝利への道は
「先手1t目エルフからの怨恨、怨恨、剛力化で2~3tKill」という”分かりやすいイメージ”ではなく、「互いに1:1交換を繰り返していく」という”ゲーム展開を把握すること”だ。
そのゲームプラン上には後手を取る意味が現れてくる。
■ まとめ
先手が有利な状況というのは間違いなく存在する。しかし、先手が有利な状況が存在してもそこに至れないのでは意味が無い。
「感染は2tkillが発生するから先手有利」。本当だろうか?
はらわた打ち、精神的つまづきの群れの上から2tkill等絵に描いた餅に過ぎない。
それならば1枚の利を得られる後手の方が良いだろう。「後手だからキープ」「後手だからマリガン」と言ったキープに対しての幅を得られることも忘れてはならない。
確かに先手が有利なときは多い、多くは先手を取るべきだろう。
しかし自分はどういった展開を期待、予測してそこに至ることが可能か判じた上で先手を取るべきではないか。
「後手を取る可能性」。
これを考慮することはゲームプランを立てるというMTGで大切なことを考えることになる。
----------
僕の中でも先手有利説というのは強く根付いています。本当に確固たる自信を持たない限り後手を取らないでしょう。
黒単同型は後手でも良いかもしれないと思ったりするのですが、負けたときにあえて後手を取ったせいで負けたと錯覚しかねないのが恐ろしいところです。
そういう変な裏目や錯覚が気持ち悪いので先手を取りたいです。だから先手を取る意味を補強するためにも強く殴る形を意識して先手でゾンビを残したりしています。
基本的に自分の中にある大前提というのは成長を妨げる原因になるので、少なくとも前提ではなく納得した形で保存したいですね。
いつもなら自分の中で答えが出来てから書くのですが、今回はよく分かりません。
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■ プレイ or ドロー
ダイスロールであなたは勝利しました。
先手にしますか?後手にしますか?
少なくとも僕の前に座った人の99%は先手を取っていた(過去1度だけ後手を取られたことがある)
また「今日は全然ダイス勝てないよー」と、ダイスロールの敗北は「不運(マイナス)」の表現を持って使われる。
このことからも「MTG(構築戦)は先手が有利である」というのは大前提というのが共通認識だろう。
今回はその大前提の例外である「後手を取る可能性」について話してみたい。
■ 本当に先手は絶対有利なのか?
最近PTQを抜けた、そこのスイスラウンドの結果は7-1-1だが、この日のダイスロールの結果は2-6であり、負けた試合は先手のときであり、逆に後手勝率は100%となっている。
この結果を含め、最近黒単をよく回していたが、先手後手による有利・不利をあまり感じなかった。
ここで、一つの試みを行ってみた。実際の大会結果の先手後手勝率を出すことである。
基本的に自分は先手後手を記録していないため、代わりにDNの大会記録に先手後手と勝敗を記録しているユーザー一人の過去ログを漁り、その人の先手勝率と後手勝率を調べてみた。(本人許可を得ていないし、得るのも面倒なので誰のDNかは伏せる)
所詮目安程度なので数は少ないが合計54戦を調べてみた。そのうち先手が33回、後手が21回。使っていたデッキは早いアグロ(特に先手有利が提唱されそうなデッキ)ではないとだけ述べておく。
先手勝率 23 - 10 (69.6%)
後手勝率 14 - 7 (66.6%)
この数値の意味の無さを述べておく。
・デッキの構成や当時のメタゲーム等の前提の異なるデータの混ぜ合わせであること
・サンプル数が少なすぎること
そういった問題点全てを廃した上で数値だけを見ると、大体差は3%。因みに後手が 16-7の場合69.5%となるため、ここから後手で2連勝するとほぼ同じ確率になる。思った程大きな差にならなかった。それでも多少は先手有利なのだろうか。
■ 先手絶対有利論はどこから来るのか
先手
・先に高いマナ域に到達出来る
・先にコンバットを行える
後手
・先にカードを引ける
-----
先手有利論は何故ここまで一般的になったのか、その理由として思いついたのは「先手有利は非常に説明しやすさ」があるからだと思う。
・互いに除去の無い先出し《群れネズミ》
・黒単先手なら相手ハンドの《ボロスの反抗者》を抜くことが出来る
・《審問官の使い魔》の存在
etc
先手側が有利な状況を挙げてみろ、と言われたときに挙げられる例示は他にもたくさんある。
では、後手が有利な状況を挙げてみろ、と言われたときにそれはパッと思いつかない。
「互いに消耗戦になり、トップ勝負になったとき」と言う具体性の無い漠然とした表現になってしまう。
この後手有利説の具体性の低さが先手有利説を更に推し進めてしまっているのではないかと感じている。
「相手の先手思考囲いでこちらの囲いを落とされ、ネズミを出され、こちらもネズミを出し返したものの負け」
黒単なら味わったことがある負け方の一つかもしれない。
これは先手有利説を推し進めるものだ。
しかし仮に、こちらのハンドに除去が複数や2枚目の囲いがあった、場合によっては後手のドローでトップデッキをし、無事相手の群れネズミに当てられたとする。
その瞬間、両者に明確な差は無くなる、それどころかカード1枚多く保有する後手の方が有利と言える。1:1交換を繰り返した先、そこにあるのはカードを1枚多く引いている後手の勝利だ。
だが、先ほどの状況は確かに後手が僅かに有利と言える。
しかしここから先手が勝っても誰も驚かないだろう。そのくらい後手の有利は微妙なものだ。
後手有利説が全く出てこない理由の一つ。
「先手の有利はゲームを決めるが、後手の有利にはそれがない」
後手の有利は具体的な盤面ではなく、長いゲームプランの上の方針として存在する。
だからこそ、人には伝えにくいし、伝わらない。そして、先手での勝利(後手での敗北)は具体的な盤面や状況を残すため印象に残りやすい。一方、後手の勝利はトップ勝負に勝った、という形で置換されてしまう。
■ 後手を取る(1)
後手のメリットで分かりやすいことはキープ時にデッキトップの更に1枚にまで期待ができることだ。
その利を生かし、後手を取ることが一般的な戦いが存在する。
重コントロール対決だ。
序盤の1マナに特に意味も無く、淡々と土地を並べ続けることが要求される。
その上で必要なのは後手のワンドローというのは非常に分かりやすい。
■後手を取る(2)
そういった重コントロール同型以外に後手を取るときは存在するだろうか。
僕は過去数度意図的に後手を取ったことがある。その一つを例示したい。
13《森/Forest》
4《墨蛾の生息地/Inkmoth Nexus(MB)》
4《戦の大聖堂/Cathedral of War(M13)》
4《ぎらつかせのエルフ/Glistener Elf(NP)》
4《胆液爪のマイア/Ichorclaw Myr(SM)》
2《荒廃のマンバ/Blight Mamba(SM)》
4《変異原性の成長/Mutagenic Growth(NP)》
4《怨恨/Rancor(M13)》
3《レインジャーの悪知恵/Ranger’s Guile(IS)》
2《精神的つまづき/Mental Misstep(NP)》
2《はらわた撃ち/Gut Shot(NP)》
4《使徒の祝福/Apostle’s Blessing(NP)》
4《剛力化/Titanic Growth(M13)》
4《野生の抵抗/Wild Defiance(AS)》
2《緑の太陽の頂点/Green Sun’s Zenith(MB)》
サイド
4《吠え群れの飢え/Hunger of the Howlpack(DA)》
2《精神的つまづき/Mental Misstep(NP)》
2《呪文滑り/Spellskite(NP)》
1《シルヴォクののけ者、メリーラ/Melira, Sylvok Outcast(NP)》
3《四肢切断/Dismember(NP)》
3《ヴィリジアンの堕落者/Viridian Corrupter(MB)》
当時環境最速のデッキだった感染。このデッキで後手を選択した。相手は同型だった。
感染と言うと、2killすら可能な最速のデッキ。そこで後手を選択したことには自分なりの理由がある。
墨蛾、マンバ、マイアは全てはらわた打ち、四肢切断で対処可能だ。メリーラ、呪文滑りなど対処しないとゲームが進まないカードも存在する。また感染特有の能力により基本的にクリーチャーは相打ちに持ち込むことが可能だ。
そして互いに非常に軽いため、後手が何も出来ずに死んでしまうパターンは非常に少ない。
そのため、エルフは相打ち、メリーラや滑りには四肢切断、そしてそれを守るカード、といった形でゲームは互いに手札のカードを1:1で交換し続ける形になる。
互いにカードを1枚ずつ交換し続ける状況。これこそが後手を選択する瞬間となる。
この戦いに存在する勝利への道は
「先手1t目エルフからの怨恨、怨恨、剛力化で2~3tKill」という”分かりやすいイメージ”ではなく、「互いに1:1交換を繰り返していく」という”ゲーム展開を把握すること”だ。
そのゲームプラン上には後手を取る意味が現れてくる。
■ まとめ
先手が有利な状況というのは間違いなく存在する。しかし、先手が有利な状況が存在してもそこに至れないのでは意味が無い。
「感染は2tkillが発生するから先手有利」。本当だろうか?
はらわた打ち、精神的つまづきの群れの上から2tkill等絵に描いた餅に過ぎない。
それならば1枚の利を得られる後手の方が良いだろう。「後手だからキープ」「後手だからマリガン」と言ったキープに対しての幅を得られることも忘れてはならない。
確かに先手が有利なときは多い、多くは先手を取るべきだろう。
しかし自分はどういった展開を期待、予測してそこに至ることが可能か判じた上で先手を取るべきではないか。
「後手を取る可能性」。
これを考慮することはゲームプランを立てるというMTGで大切なことを考えることになる。
----------
僕の中でも先手有利説というのは強く根付いています。本当に確固たる自信を持たない限り後手を取らないでしょう。
黒単同型は後手でも良いかもしれないと思ったりするのですが、負けたときにあえて後手を取ったせいで負けたと錯覚しかねないのが恐ろしいところです。
そういう変な裏目や錯覚が気持ち悪いので先手を取りたいです。だから先手を取る意味を補強するためにも強く殴る形を意識して先手でゾンビを残したりしています。
「に関する話」に関する話
2014年1月17日 MTGに関する話 コメント (2)たまに書いていた無駄に長い記事をまとめました。
書き始めたのはここ二年くらいですが、何だかんだ自分の中で一番意味のある行為だったと思っているので掘り起こしてきました。
自分の興味と思考の変遷を辿れるから、日記を長く続けることの意味を感じます。
興味はプレイングから調整へ。今はデッキを選択する方法に少し興味持ってます。
-------------
2012/07/05
プレイングの下地の話
http://homahi.diarynote.jp/201207052140586353/
2012/12/06
プレイングに関する話
http://homahi.diarynote.jp/201212061107416443/
2012/12/13
マジックの勝つための理論に関する話
http://homahi.diarynote.jp/201212130057285041
2013/01/08
マジックに必要な能力に関する話
http://homahi.diarynote.jp/201301081442266264
2013/06/18
サイドボードとプレイに関する話
http://homahi.diarynote.jp/201306181936375203/
2013/06/20
テストプレイとデッキ調整に関する話
http://homahi.diarynote.jp/201306202048316125/
2013/12/26
調整に関する話
http://homahi.diarynote.jp/201312261727498443
書き始めたのはここ二年くらいですが、何だかんだ自分の中で一番意味のある行為だったと思っているので掘り起こしてきました。
自分の興味と思考の変遷を辿れるから、日記を長く続けることの意味を感じます。
興味はプレイングから調整へ。今はデッキを選択する方法に少し興味持ってます。
-------------
2012/07/05
プレイングの下地の話
http://homahi.diarynote.jp/201207052140586353/
2012/12/06
プレイングに関する話
http://homahi.diarynote.jp/201212061107416443/
2012/12/13
マジックの勝つための理論に関する話
http://homahi.diarynote.jp/201212130057285041
2013/01/08
マジックに必要な能力に関する話
http://homahi.diarynote.jp/201301081442266264
2013/06/18
サイドボードとプレイに関する話
http://homahi.diarynote.jp/201306181936375203/
2013/06/20
テストプレイとデッキ調整に関する話
http://homahi.diarynote.jp/201306202048316125/
2013/12/26
調整に関する話
http://homahi.diarynote.jp/201312261727498443
最近調整環境というものの重要性を感じました。
ここの話はGP静岡の初日を終えたところで、もっちーさんに教えて貰ったトンカツ屋でN田と話した話をまとめたもの。
定期思考メモ。
------
■ 調整(デッキ作り)の重要性
大会に臨むにあたり、どこかの大会で結果を残したコピーデッキではなく、自分で調整をしたデッキを持ち込む重要性については先日の日記に書いた。
簡単に結論を書くと、上手いプレイを増やすのは難しく、下手なプレイを減らしきることも出来ない。だからこそ、デッキ構築は相手のミスプレイを増やすための手段になり、延いては勝利への手段となりうる。
■ デッキ調整とデッキ構築の違いとは
ここを厳密に分けるかどうかは個人差があると思われる。
自分は概ね同じようなものだと思っている。ななしさんは構築は「新しいコンセプト」を作る行為、調整は「コンセプトを強化する行為」と言っていた。
GP静岡準優勝のエスパー人間もそういう意味では調整の範疇に近いが、あれをデッキ構築と言って異論のある人はいないだろう。そのくらい曖昧な差だと思っている。
■ 調整のプロセス
調整はどのように行えば良いか、この方法はなかなか言語化されることが少なく、皆漠然とデッキを持ち寄り、互いにフリープレイを繰り返すだけのことを指すことが多い、しかしここからの実りはあまり無いように感じられた。
この調整が意味がないように感じられたのは、その先の段階が真に必要だからだ。
そのことを踏まえた上で調整をするためのプロセスを書く。
-------------
1.環境に存在するメタデッキを用意する。
2.総当りでメイン先手後手を固定したまま複数回、可能ならサイド後も同様に行う。
3.その結果から現状のデッキ構成における、各デッキの相性を判断する。
4.有利不利が判断されたときに、不利な側はデッキ内の弱いカードを具体的に言及する。
5.その弱いカードを違うスロット(出来れば不利なデッキに強いカードであることが望ましい)に変え、2に戻る
--------------
このサイクルを繰り返すことが調整に当たるのではないか。
そして、一般的に調整と呼ばれる行為は3止まりなのでは無いか、と感じられる。
おそらくそれは調整の目的が若干異なるという点もあるのだろう。
一般的に呼ばれる調整会の目的は大抵二つである。
○互いにレシピを知っている状態で最適のプレイを模索する。
上は調整ではなく、練習である。これは最近だとMOの影響により、意識的に取り組んでいる人が多くいるように感じる。顔を付き合わせてプレイする必要が無いのではないかと感じられる程だ。
○数あるメタデッキの中からどれを選択するかの参考にする。
これを目的とする人も非常に多い。しかしこれは3までの行為で、調整の真の目的はここからどうするか、ということではないだろうか。もともと調整は元々至らない力量を補うためにする行為だ。メタデッキのどれかを選択するかというのは目的の本質ではない。
また、何故調整と呼ばれる行為の本質が練習会に過ぎず、調整というのがその副産物という状態になってしまうのか。それは4,5の難易度が非常に高いことにある。ここは本当に閃きと呼ばれる段階だ。そしてこれは万人に同時に訪れるものではなく、おそらく運すら影響する。だからこそ調整は一人でせず複数人ですることが望ましい。
常に調整が成功するわけではない、それでも目的を見失うことは避けないとならない。
■ 調整のためのコミュニティ
N田とは調整のプロセスはこうあるべき、という話までしたところで、
そこから話は実際の調整のコミュニティはどう構成すべきか、という話になりました。
そこで出た一緒に調整をしたい人の条件。
---------------
1.プレイが迅速で長考が少ない
2.偏見の少なさ
3.延々とフリープレイを出来る体力
---------------
勿論ここから定期的に集まれる等の場所の話もあるのですが。
1の重要性が高いのは目的が練習では無い、ということが影響する。
知るべきは最適のプレイではなく、カードの使い心地だ。
2、3は新しい発想に取り掛かる力となる。基本的に発想の大半がゴミだ。それでもとりあえず一回試してみよう、というスレッショルドは人によっては思いがけず高いものだ。そのスレッショルドが低い人材は貴重だ。
ただ往々にして、一度自分が思いついた発想は既に人が通って切り捨てたものである。だが人は自分の思いついたカードを大事にし過ぎてしまう。複数人の調整はそんなところを冷静に意見してくれる者がいることも重要である。
■ まとめ
基本的に一般的に言われる調整会という言葉へ疑問を投げつけた形になる。
上手く無い者が勝つために必要なのは練習ではなく、デッキ調整なのだ、ということを強く主張したい。
時間を費やしたら勝てるわけではない、その方向性もまた重要だ。
-------
結局今回のGPは調整不足の点がまだあったみたいで悔しいのです。
いつもいつも時間を取れるわけではないので、その使い方だけは意識したいと思いました。
ここの話はGP静岡の初日を終えたところで、もっちーさんに教えて貰ったトンカツ屋でN田と話した話をまとめたもの。
定期思考メモ。
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■ 調整(デッキ作り)の重要性
大会に臨むにあたり、どこかの大会で結果を残したコピーデッキではなく、自分で調整をしたデッキを持ち込む重要性については先日の日記に書いた。
簡単に結論を書くと、上手いプレイを増やすのは難しく、下手なプレイを減らしきることも出来ない。だからこそ、デッキ構築は相手のミスプレイを増やすための手段になり、延いては勝利への手段となりうる。
■ デッキ調整とデッキ構築の違いとは
ここを厳密に分けるかどうかは個人差があると思われる。
自分は概ね同じようなものだと思っている。ななしさんは構築は「新しいコンセプト」を作る行為、調整は「コンセプトを強化する行為」と言っていた。
GP静岡準優勝のエスパー人間もそういう意味では調整の範疇に近いが、あれをデッキ構築と言って異論のある人はいないだろう。そのくらい曖昧な差だと思っている。
■ 調整のプロセス
調整はどのように行えば良いか、この方法はなかなか言語化されることが少なく、皆漠然とデッキを持ち寄り、互いにフリープレイを繰り返すだけのことを指すことが多い、しかしここからの実りはあまり無いように感じられた。
この調整が意味がないように感じられたのは、その先の段階が真に必要だからだ。
そのことを踏まえた上で調整をするためのプロセスを書く。
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1.環境に存在するメタデッキを用意する。
2.総当りでメイン先手後手を固定したまま複数回、可能ならサイド後も同様に行う。
3.その結果から現状のデッキ構成における、各デッキの相性を判断する。
4.有利不利が判断されたときに、不利な側はデッキ内の弱いカードを具体的に言及する。
5.その弱いカードを違うスロット(出来れば不利なデッキに強いカードであることが望ましい)に変え、2に戻る
--------------
このサイクルを繰り返すことが調整に当たるのではないか。
そして、一般的に調整と呼ばれる行為は3止まりなのでは無いか、と感じられる。
おそらくそれは調整の目的が若干異なるという点もあるのだろう。
一般的に呼ばれる調整会の目的は大抵二つである。
○互いにレシピを知っている状態で最適のプレイを模索する。
上は調整ではなく、練習である。これは最近だとMOの影響により、意識的に取り組んでいる人が多くいるように感じる。顔を付き合わせてプレイする必要が無いのではないかと感じられる程だ。
○数あるメタデッキの中からどれを選択するかの参考にする。
これを目的とする人も非常に多い。しかしこれは3までの行為で、調整の真の目的はここからどうするか、ということではないだろうか。もともと調整は元々至らない力量を補うためにする行為だ。メタデッキのどれかを選択するかというのは目的の本質ではない。
また、何故調整と呼ばれる行為の本質が練習会に過ぎず、調整というのがその副産物という状態になってしまうのか。それは4,5の難易度が非常に高いことにある。ここは本当に閃きと呼ばれる段階だ。そしてこれは万人に同時に訪れるものではなく、おそらく運すら影響する。だからこそ調整は一人でせず複数人ですることが望ましい。
常に調整が成功するわけではない、それでも目的を見失うことは避けないとならない。
■ 調整のためのコミュニティ
N田とは調整のプロセスはこうあるべき、という話までしたところで、
そこから話は実際の調整のコミュニティはどう構成すべきか、という話になりました。
そこで出た一緒に調整をしたい人の条件。
---------------
1.プレイが迅速で長考が少ない
2.偏見の少なさ
3.延々とフリープレイを出来る体力
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勿論ここから定期的に集まれる等の場所の話もあるのですが。
1の重要性が高いのは目的が練習では無い、ということが影響する。
知るべきは最適のプレイではなく、カードの使い心地だ。
2、3は新しい発想に取り掛かる力となる。基本的に発想の大半がゴミだ。それでもとりあえず一回試してみよう、というスレッショルドは人によっては思いがけず高いものだ。そのスレッショルドが低い人材は貴重だ。
ただ往々にして、一度自分が思いついた発想は既に人が通って切り捨てたものである。だが人は自分の思いついたカードを大事にし過ぎてしまう。複数人の調整はそんなところを冷静に意見してくれる者がいることも重要である。
■ まとめ
基本的に一般的に言われる調整会という言葉へ疑問を投げつけた形になる。
上手く無い者が勝つために必要なのは練習ではなく、デッキ調整なのだ、ということを強く主張したい。
時間を費やしたら勝てるわけではない、その方向性もまた重要だ。
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結局今回のGPは調整不足の点がまだあったみたいで悔しいのです。
いつもいつも時間を取れるわけではないので、その使い方だけは意識したいと思いました。
テストプレイとデッキ調整に関する話
2013年6月20日 MTGに関する話今回はいつも以上に妄言と駄文です。
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デッキ調整をしているとき、よく出口の無い迷路に迷い込んだような感覚に襲われることがあります。
メインボード50枚程は一般的な必須パーツ他で決まったものの、残り10枚が決まらない。候補はあるがこれを全部入れるわけにはいかず、ある程度の取捨選択の必要に迫られるという場面です。
MTGなんて理論を並べてみたところで、その理論の確からしさは証明することはできず、思いもしないカードが強かったり、強いはずのカードが弱いということは多々あります。理論を重ねるより実際に結果を残した(勝率の高い)ものを選択することが望まれます。そしてそれを試すのがテストプレイに当たるわけです。
ただテストプレイは現状方法論が無く、そのため何となく一回の勝負に一喜一憂するだけの非生産的なフリープレイに陥ることは、少なくとも私はよくあることです。
テストプレイを行い確実にデッキを強くする手法が確立されることは大きな意味があるのではないかと考えました。
そこで厳密な最適解を得ることはできないが、ある程度それっぽい解を得ることが出来る遺伝的アルゴリズムを採用したら何か面白い結果は出せないでしょうか。
-----
(仮定)確定パーツ50枚が決定し、残り10枚程の選択を迫られている。候補は挙げられるがどれを何枚採用するかで悩んでいる状態。
1.デッキに入りうるパーツを選定する(10種類程?)
2.選定されたパーツ(今回は10種とする)同じ数の遺伝子を用意し、各遺伝子が0~4(カードの枚数)の数値を取るとする。
(ex.遺伝子 1 2 0 3 0 0 2 2...となったときは1番のカードを1枚、2番のカードを2枚、3番のカードは0枚を意味する)
3.この方法で数種の遺伝子に基づくデッキを作る。
4.環境のメタデッキを用意し、それぞれと1ゲームを行い合計勝利数を評価点とする。(5つデッキを用意したとしたら、1勝で1点、3勝で3点)。同時に各遺伝子の合計数が10を超えるごとに減点を加える(デッキ総数が60を超えるため)
5.デッキ(個体群)のうち評価点が高い上位数種を残し、他を淘汰する。
6.遺伝子に交叉、突然変異を加え、新たな子を作る。
7.3-7のループを行う。
------
色々なパターンのデッキを作る
↓
それぞれの勝率を調べる
↓
成績が良かった奴をあいのこにする
↓
繰り返し
------
行われていることは要するに「このカードは強かったから使おう」「このカードは弱かったから抜こう」というテストプレイとして一般に行われることを書き下しただけとも言えます。異なるのはその評価の方法を使い心地ではなく厳密に勝率のみで決定していることですね。
4は環境の想定するメタ分布があれば、それに応じた重み付けで評価を行えば意味はありそう。あと評価点のMAXの5点が簡単に達成されてしまうので、もう少しアナログな評価点を結局必要としてしまうこと。まぁこれはそれでも悪くないかもしれません。
-----
それでまぁ問題点なわけですが。
前提が崩壊しますが、そもそも勝率とデッキの強さに正しい相関があるとは限らないんですよね。
特に問題とされるのは4の評価の部分ですね。デッキの10枚のバランスが異なるとしても、それの勝利貢献度がどのくらいになるのか確率で決定されるということですね。いわゆる「入っていたけど引かなかった」という部分が完全に考慮されていないこと。
もう一つは勝率という部分のみで判断しているものの、プレイヤーの力量というのは勝率に少なくない影響を与えます。2人のプレイヤーのみで行うならゲームごとのプレイヤーパラメータは一定なので問題ないですが、これを少人数で行うのは非現実的であり、多人数で行うとゲームごとのプレイヤーパラメータが変化し、「Aさんが強いからAさんが使っているデッキの勝率が高い」という状況が発生しうること。
一応運の方は試行回数次第で収束しますが(ただ現実時間では多分無理)、プレイヤーの力量について収束してしまう恐れもありますね。
あとはサイドボード後は考慮していないこと。まぁここはそこまで含めた75枚で考えれば良いですね(勿論その分重くなりますけど)
一番の問題は実際に収束するためには一体何ゲームを行う必要があるのか・・・、ということ。
個体数15 世代数10 対デッキ4だとすると、完了まで600ゲームを必要とします。一試合にプレイヤーが2人いるので、のべ1200ゲームですね。そして多分これだけやっても収束には全然届かない気がしますが。
5人が一日30ゲーム(10マッチ相当)をやっても8日間。これでも試行回数としては少なすぎるくらいですね。
その結果がメタデッキ5個と思えばギリギリ現実的と言えなくも無いですが、結局成果物次第ですね。どんなのが出来るのか興味はあります。
-----
大会上位のデッキをコピーして弄ることはこれらの完成系です。たくさんのデッキの中から最も良い勝率のものをくみ出しているわけですしね。つまり突き詰めるとコピーデッキ推奨ということも言えますね。だからこれを適応するなら誰も回していないようなデッキに対してが推奨のはず。ただ評価に使う対戦デッキはメタデッキではないと意味が無いため、マイナーデッキ数個を同時に調整することは出来ず、ただただ非効率な方法としか良いようが無いのが悲しい。
ただテストプレイや調整への方法論は希求されています。
僕たち一般人は天からデッキが舞い降りてくるのを口をあけて待つのではなく、自分の手でつかみ取れるようにならなきゃならないとは思います。
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あ、あと北九州行きます。GPT出なきゃなぁ。
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デッキ調整をしているとき、よく出口の無い迷路に迷い込んだような感覚に襲われることがあります。
メインボード50枚程は一般的な必須パーツ他で決まったものの、残り10枚が決まらない。候補はあるがこれを全部入れるわけにはいかず、ある程度の取捨選択の必要に迫られるという場面です。
MTGなんて理論を並べてみたところで、その理論の確からしさは証明することはできず、思いもしないカードが強かったり、強いはずのカードが弱いということは多々あります。理論を重ねるより実際に結果を残した(勝率の高い)ものを選択することが望まれます。そしてそれを試すのがテストプレイに当たるわけです。
ただテストプレイは現状方法論が無く、そのため何となく一回の勝負に一喜一憂するだけの非生産的なフリープレイに陥ることは、少なくとも私はよくあることです。
テストプレイを行い確実にデッキを強くする手法が確立されることは大きな意味があるのではないかと考えました。
そこで厳密な最適解を得ることはできないが、ある程度それっぽい解を得ることが出来る遺伝的アルゴリズムを採用したら何か面白い結果は出せないでしょうか。
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(仮定)確定パーツ50枚が決定し、残り10枚程の選択を迫られている。候補は挙げられるがどれを何枚採用するかで悩んでいる状態。
1.デッキに入りうるパーツを選定する(10種類程?)
2.選定されたパーツ(今回は10種とする)同じ数の遺伝子を用意し、各遺伝子が0~4(カードの枚数)の数値を取るとする。
(ex.遺伝子 1 2 0 3 0 0 2 2...となったときは1番のカードを1枚、2番のカードを2枚、3番のカードは0枚を意味する)
3.この方法で数種の遺伝子に基づくデッキを作る。
4.環境のメタデッキを用意し、それぞれと1ゲームを行い合計勝利数を評価点とする。(5つデッキを用意したとしたら、1勝で1点、3勝で3点)。同時に各遺伝子の合計数が10を超えるごとに減点を加える(デッキ総数が60を超えるため)
5.デッキ(個体群)のうち評価点が高い上位数種を残し、他を淘汰する。
6.遺伝子に交叉、突然変異を加え、新たな子を作る。
7.3-7のループを行う。
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色々なパターンのデッキを作る
↓
それぞれの勝率を調べる
↓
成績が良かった奴をあいのこにする
↓
繰り返し
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行われていることは要するに「このカードは強かったから使おう」「このカードは弱かったから抜こう」というテストプレイとして一般に行われることを書き下しただけとも言えます。異なるのはその評価の方法を使い心地ではなく厳密に勝率のみで決定していることですね。
4は環境の想定するメタ分布があれば、それに応じた重み付けで評価を行えば意味はありそう。あと評価点のMAXの5点が簡単に達成されてしまうので、もう少しアナログな評価点を結局必要としてしまうこと。まぁこれはそれでも悪くないかもしれません。
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それでまぁ問題点なわけですが。
前提が崩壊しますが、そもそも勝率とデッキの強さに正しい相関があるとは限らないんですよね。
特に問題とされるのは4の評価の部分ですね。デッキの10枚のバランスが異なるとしても、それの勝利貢献度がどのくらいになるのか確率で決定されるということですね。いわゆる「入っていたけど引かなかった」という部分が完全に考慮されていないこと。
もう一つは勝率という部分のみで判断しているものの、プレイヤーの力量というのは勝率に少なくない影響を与えます。2人のプレイヤーのみで行うならゲームごとのプレイヤーパラメータは一定なので問題ないですが、これを少人数で行うのは非現実的であり、多人数で行うとゲームごとのプレイヤーパラメータが変化し、「Aさんが強いからAさんが使っているデッキの勝率が高い」という状況が発生しうること。
一応運の方は試行回数次第で収束しますが(ただ現実時間では多分無理)、プレイヤーの力量について収束してしまう恐れもありますね。
あとはサイドボード後は考慮していないこと。まぁここはそこまで含めた75枚で考えれば良いですね(勿論その分重くなりますけど)
一番の問題は実際に収束するためには一体何ゲームを行う必要があるのか・・・、ということ。
個体数15 世代数10 対デッキ4だとすると、完了まで600ゲームを必要とします。一試合にプレイヤーが2人いるので、のべ1200ゲームですね。そして多分これだけやっても収束には全然届かない気がしますが。
5人が一日30ゲーム(10マッチ相当)をやっても8日間。これでも試行回数としては少なすぎるくらいですね。
その結果がメタデッキ5個と思えばギリギリ現実的と言えなくも無いですが、結局成果物次第ですね。どんなのが出来るのか興味はあります。
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大会上位のデッキをコピーして弄ることはこれらの完成系です。たくさんのデッキの中から最も良い勝率のものをくみ出しているわけですしね。つまり突き詰めるとコピーデッキ推奨ということも言えますね。だからこれを適応するなら誰も回していないようなデッキに対してが推奨のはず。ただ評価に使う対戦デッキはメタデッキではないと意味が無いため、マイナーデッキ数個を同時に調整することは出来ず、ただただ非効率な方法としか良いようが無いのが悲しい。
ただテストプレイや調整への方法論は希求されています。
僕たち一般人は天からデッキが舞い降りてくるのを口をあけて待つのではなく、自分の手でつかみ取れるようにならなきゃならないとは思います。
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あ、あと北九州行きます。GPT出なきゃなぁ。
サイドボードとプレイに関する話
2013年6月18日 MTGに関する話http://mtg-jp.com/reading/translated/rc/004025/
「ゼロからのデッキ構築」
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昨年度の記事で、そのときも読みました。今改めて読んでも良いこと書いてあるな、と思いました。僕は割とサイドボードは苦手です、デッキを作る段階でそこまでを想定して作っていないせいです。デッキを作り、その場その場に合わせて色々なカードを雰囲気で突っ込むことも多く、会場で回しながら違和感を覚え修正するような場当たりなやり方となっています。(そういうことが気軽に出来るMOはメリットも大きいですね)。
今回の話は何が強い、何が弱いではなく、そもそも自分の考えるサイドボードの意味や効果を含めてプレイングの話が出来たらな、と思っています。
サイドボード後とメインボード時ではデッキが異なり、プレイの方針も大きく異なる場合がある、という認識を持つことは強くなる上で必要なことだと感じております。これはストームがサイド後双子になるというアグレッシブサイドという形だけではなく、どんなデッキもおおかれ少なかれ起こっています。
実際サイドボードは弱いカードが効果的なカードに変わるという変化だけではなく、相手との相互作用に依拠するプレイングという面にも大きな影響を与えていることは想像に難くないと思います。
以前書いたことがありますが、マジックのプレイングとは場面に応じた最適解を見つけ出すことではなく、プレイの大きな方針を明確に持ち続けることだと考えています。大局観と言われることもありますね。
では、このプレイの方針というのは具体的にどう持てば良いのか。そもそもビートダウンの至上命題は相手のライフを最速で削りきることであり、その目的に向かって最善の選択肢を取ることは大局観とは無縁の、正に解を求める行為に他ならないのでは、という考えが浮かびます。しかし多くの場合この考えは間違いです。
本当に良いビートダウンというのはサイドボードまで含めると、コントロールに回ることが可能である必要があります。多くの人が行っている「ビート対策に除去を入れる」。この除去を入れるという行為はコントロールと振舞うための手段であり、意識的にもしくは無意識的に多くの人が行っていることではあります。
では、何故コントロールとして振舞える必要があるのか、その理由は三つあります。
一つはMTGでは同型が必ず発生し、そして必ず先手で始めることが出来るわけではないからです。同型で後手の場合互いが同じカードを引くと仮定すると、後手は絶対に勝つことが出来ません。だからこそ、コントロールとして振舞う、つまり相手の攻撃を受けきる必要があります。
もう一つは単純にそちらの方が勝ちやすいからと言うのがあります。
一般的に相手のデッキより僅かに重い構成の方が勝ちやすいと言われています。ブリッツにナヤミドルが強く、それにトリコフラッシュが強いという構図は何となく理解しやすいのではないかと思います。これはデッキの種類ごとの相性だけではなく、構成でも同じことが言えます。
つまりほぼ同速のデッキと対戦する場合は軽い序盤にしか役立たないカードを重いカードと交換可能な除去や、実際に重いカードと入れ替えることで有利に立ち振る舞えます。
三つ目は対戦相手のサイドボードを避けることが可能なこと。
2/2の群れの高速ビートダウンへの良い回答は火柱などの軽い除去です。そこでサイドボードとしてその手のカードが入れられることは想像に難くありません。そこに新たな2/2をサイドから投入し無理やり突破するよりは3/3という火柱の効かないクリーチャーで殴ることを目指したほうがより簡単に勝利に近づけるでしょう。
メインボードでアドバンテージを取る手段が無いにも関わらずコントロールに回ることが可能なのか?という疑問が浮かぶ場合があると思います。
しかし、実際にアドバンテージを取れる必要はありません。現在MTGのカードは非常に良く調整されており、カードの効果とマナコストは比例関係にあります。4マナのカードは2マナ2枚分の効果を発揮出来るということです。
つまりサイド後2マナのカードを4マナに入れ替えることはアドバンテージ源を入れるのと似たような効果を発揮します。こうして枚数的なアドバンテージは取れずとも質的なアドバンテージを得ることが可能となります。
まとめると、「軽いカードを抜き、重いカードを入れる」「除去を入れる」概ねこれだけでも一直線なビートダウンデッキにコントロール要素を含めることが可能です。特に今のカードは非常に強いですからね。
例えば「ボロスの反抗者」や「復活の声」等のビートダウンに入れることが可能でありながら、受けに回るときにも良い性能を発揮するクリーチャーの評価が高いのはビートダウンに「相手の攻撃を受ける」という新たな選択肢を提供してくれることが評価されているためです。
そして合わせて語らねばならないのはそれに伴うプレイの変化です。
どれだけデッキが変化しても、使う側の意識が伴わないといけません。
そこでこれは人から教わった言葉で、自分自身心がけていることなのですが、
「自分がビートダウン・コントロールどちらに属すのかを認識すること」だと考えています。
赤緑は早いビートダウンの代表です。それがサイド後トリコ相手にアドバンテージ勝負を挑むのは無謀です。それは相手には長引けば長引く程有利である啓示が入っているから。しかし、ブリッツ相手にはどうでしょうか。2/2解鎖を1t目に出しゴーア族でスピード勝負を挑むより、相手の教区の勇者と殴りあうより、教区の勇者を火柱し、2/2は相打ちに持ち込み、3/3に槍を打ちながらゴーア族を着地させた方が勝ちやすいでしょう。これがコントロールとして振舞えるデッキの強みだと考えています。
もしサイドボード後自分がコントロールであるという認識を持ったなら、メインボードでは相手ライフを最速で削りきることは目的ではなくなり、先ほどデッキに増やした重いカードが活躍できるための盤面を作り上げることが目的となります。絡み根の霊は速攻を持つ除去に強いクリーチャーではなく、二度のブロックが可能であり、2/2,3/3と相打つことでゲームを停滞させるクリーチャーに変化し、反抗者は本体に叩き込むブロックされにくいクリーチャーではなく、どんな大きな生物とでも相打ちが取れるクリーチャーとなります。
サイドボードとメインボードで異なったゲームプランを持つことは勝率を安定させる一つの手段になりうると思います。
「ゼロからのデッキ構築」
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昨年度の記事で、そのときも読みました。今改めて読んでも良いこと書いてあるな、と思いました。僕は割とサイドボードは苦手です、デッキを作る段階でそこまでを想定して作っていないせいです。デッキを作り、その場その場に合わせて色々なカードを雰囲気で突っ込むことも多く、会場で回しながら違和感を覚え修正するような場当たりなやり方となっています。(そういうことが気軽に出来るMOはメリットも大きいですね)。
今回の話は何が強い、何が弱いではなく、そもそも自分の考えるサイドボードの意味や効果を含めてプレイングの話が出来たらな、と思っています。
サイドボード後とメインボード時ではデッキが異なり、プレイの方針も大きく異なる場合がある、という認識を持つことは強くなる上で必要なことだと感じております。これはストームがサイド後双子になるというアグレッシブサイドという形だけではなく、どんなデッキもおおかれ少なかれ起こっています。
実際サイドボードは弱いカードが効果的なカードに変わるという変化だけではなく、相手との相互作用に依拠するプレイングという面にも大きな影響を与えていることは想像に難くないと思います。
以前書いたことがありますが、マジックのプレイングとは場面に応じた最適解を見つけ出すことではなく、プレイの大きな方針を明確に持ち続けることだと考えています。大局観と言われることもありますね。
では、このプレイの方針というのは具体的にどう持てば良いのか。そもそもビートダウンの至上命題は相手のライフを最速で削りきることであり、その目的に向かって最善の選択肢を取ることは大局観とは無縁の、正に解を求める行為に他ならないのでは、という考えが浮かびます。しかし多くの場合この考えは間違いです。
本当に良いビートダウンというのはサイドボードまで含めると、コントロールに回ることが可能である必要があります。多くの人が行っている「ビート対策に除去を入れる」。この除去を入れるという行為はコントロールと振舞うための手段であり、意識的にもしくは無意識的に多くの人が行っていることではあります。
では、何故コントロールとして振舞える必要があるのか、その理由は三つあります。
一つはMTGでは同型が必ず発生し、そして必ず先手で始めることが出来るわけではないからです。同型で後手の場合互いが同じカードを引くと仮定すると、後手は絶対に勝つことが出来ません。だからこそ、コントロールとして振舞う、つまり相手の攻撃を受けきる必要があります。
もう一つは単純にそちらの方が勝ちやすいからと言うのがあります。
一般的に相手のデッキより僅かに重い構成の方が勝ちやすいと言われています。ブリッツにナヤミドルが強く、それにトリコフラッシュが強いという構図は何となく理解しやすいのではないかと思います。これはデッキの種類ごとの相性だけではなく、構成でも同じことが言えます。
つまりほぼ同速のデッキと対戦する場合は軽い序盤にしか役立たないカードを重いカードと交換可能な除去や、実際に重いカードと入れ替えることで有利に立ち振る舞えます。
三つ目は対戦相手のサイドボードを避けることが可能なこと。
2/2の群れの高速ビートダウンへの良い回答は火柱などの軽い除去です。そこでサイドボードとしてその手のカードが入れられることは想像に難くありません。そこに新たな2/2をサイドから投入し無理やり突破するよりは3/3という火柱の効かないクリーチャーで殴ることを目指したほうがより簡単に勝利に近づけるでしょう。
メインボードでアドバンテージを取る手段が無いにも関わらずコントロールに回ることが可能なのか?という疑問が浮かぶ場合があると思います。
しかし、実際にアドバンテージを取れる必要はありません。現在MTGのカードは非常に良く調整されており、カードの効果とマナコストは比例関係にあります。4マナのカードは2マナ2枚分の効果を発揮出来るということです。
つまりサイド後2マナのカードを4マナに入れ替えることはアドバンテージ源を入れるのと似たような効果を発揮します。こうして枚数的なアドバンテージは取れずとも質的なアドバンテージを得ることが可能となります。
まとめると、「軽いカードを抜き、重いカードを入れる」「除去を入れる」概ねこれだけでも一直線なビートダウンデッキにコントロール要素を含めることが可能です。特に今のカードは非常に強いですからね。
例えば「ボロスの反抗者」や「復活の声」等のビートダウンに入れることが可能でありながら、受けに回るときにも良い性能を発揮するクリーチャーの評価が高いのはビートダウンに「相手の攻撃を受ける」という新たな選択肢を提供してくれることが評価されているためです。
そして合わせて語らねばならないのはそれに伴うプレイの変化です。
どれだけデッキが変化しても、使う側の意識が伴わないといけません。
そこでこれは人から教わった言葉で、自分自身心がけていることなのですが、
「自分がビートダウン・コントロールどちらに属すのかを認識すること」だと考えています。
赤緑は早いビートダウンの代表です。それがサイド後トリコ相手にアドバンテージ勝負を挑むのは無謀です。それは相手には長引けば長引く程有利である啓示が入っているから。しかし、ブリッツ相手にはどうでしょうか。2/2解鎖を1t目に出しゴーア族でスピード勝負を挑むより、相手の教区の勇者と殴りあうより、教区の勇者を火柱し、2/2は相打ちに持ち込み、3/3に槍を打ちながらゴーア族を着地させた方が勝ちやすいでしょう。これがコントロールとして振舞えるデッキの強みだと考えています。
もしサイドボード後自分がコントロールであるという認識を持ったなら、メインボードでは相手ライフを最速で削りきることは目的ではなくなり、先ほどデッキに増やした重いカードが活躍できるための盤面を作り上げることが目的となります。絡み根の霊は速攻を持つ除去に強いクリーチャーではなく、二度のブロックが可能であり、2/2,3/3と相打つことでゲームを停滞させるクリーチャーに変化し、反抗者は本体に叩き込むブロックされにくいクリーチャーではなく、どんな大きな生物とでも相打ちが取れるクリーチャーとなります。
サイドボードとメインボードで異なったゲームプランを持つことは勝率を安定させる一つの手段になりうると思います。
マジックに必要な能力に関する話
2013年1月8日 MTGに関する話 コメント (5)割と当たり前のことですが、自分の言葉に直すと理解が出来た気になります。
ただ実践ではあまり役に立たないかもしれない精神論。
不可視だけど明確に存在する壁を超えるのに必要なことを探す目的。
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以前みかちゃんが言っていました。
「リアルマジックは色々なデータが非常に分かりにくい。MOは相手のハンド自分のハンド場、墓地の枚数とかそれなりに分かりやすくなっている。だからリアルマジックはMOより難しい」
当時、MOをやっていなかったので、聞き流す程度でした。しかしMOを始めてみると、確かにリアルとは違うゲームのように感じることも多い。その原因を考えていくと、ゲーム内容が同じな以上、提示される情報に違いがあるのではないかと思いました。確かに情報は形を変えるだけで大分違う印象を受けます。
以前twitterで呟きましたが、目に見えている盤面でミスするのはミスの範疇に入らないと思っています。これはケアレスミスです、ケアレスミスは人間ですから起こります。これの発生は練習の積み重ねで低減できますが、絶対に0にはならない。単純な反復練習は対数関数的な伸びしか発生しません。
明らかな盤面で正解を見つけ出すのは基本ですが、枝葉です。強くなろうと思ったら枝葉に構うのではなく、木全体を見る必要があるなと感じています。
そもそもプレイというのはどのように選択されるのか。プレイの選択をモデル化してみると、様々な膨大なデータを引数として、自分という関数を通したときに出てくる返り値として見ることが出来ます。
今までプレイングということは受け取った情報をどう処理するのか、という点に注目が集まっていたように感じます。
そもそも情報を僕たちは全て受け取れているのでしょうか。「相手の考えうるデッキ構成」「盤面」「互いのハンド」「1t前の行動」「2t前の行動」「nt前の行動」etc、これら全て僕たちが受け取ることの出来る情報です。これら全てのデータを処理すれば最適解も出てくるかもしれません。しかし、5t前の相手の行動なんてなかなか思い出せない、場合によっては1t前ですら思い出そうとしても時間が足りません。
だから最終的に限定的な情報だけから結論を出している。
最適解を出すためのボトルネックはここかな、と。そもそも全ての情報を受け取っていないのだから、それをいくら弄り回しても最適解なんか絶対に出てこない。だからみかちゃんは「決め打ち」はある種最高の手段だと良く言います。情報を処理しきれないのだから統計的な確率から最適解を求めるのは合理的です。
でも、決め打ちでは超えられない壁があるのはもう感じています。
そこで考えを少し変えました。
MTGは一つの情報管理ゲームだ、と。
情報管理とは全ての情報を保管・管理することではなく。自分の限界を見極め、そこで優先順位をつけて管理することです。そしてこの情報管理能力は鍛えることが可能だと考えています。毎ターン、少しだけ相手の様子を伺ったり、前のターンの行動を思い出してみる。今まで漫然と流れて行き、意識していなかった情報に目を向けよう、これだけです。
意識するだけで見える世界は変わります。先ほどはボトルネックと言いましたが、この瓶の口は広げられます。
すごーく丸い言い方をすると、視野を広げよう、考えるのはそれからだ、ってことですね。
漫然と流れていくだけの情報は自分の頭の中を通すだけで随分クリアになります。情報を処理することではなく、受け取ることに意識を向けよう。
これがMTGで超えるための一つの壁じゃないかなと思いました。
とりあえず、効果は分からないけど、今度から実践してみます。
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そんなん当たり前だ、と思った人もいるかもしれないけど、壁は壁だと気付かないと、行き止まりと錯覚し壁沿いを歩くだけになるかもしれない。強くなりたいなー。
ただ実践ではあまり役に立たないかもしれない精神論。
不可視だけど明確に存在する壁を超えるのに必要なことを探す目的。
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以前みかちゃんが言っていました。
「リアルマジックは色々なデータが非常に分かりにくい。MOは相手のハンド自分のハンド場、墓地の枚数とかそれなりに分かりやすくなっている。だからリアルマジックはMOより難しい」
当時、MOをやっていなかったので、聞き流す程度でした。しかしMOを始めてみると、確かにリアルとは違うゲームのように感じることも多い。その原因を考えていくと、ゲーム内容が同じな以上、提示される情報に違いがあるのではないかと思いました。確かに情報は形を変えるだけで大分違う印象を受けます。
以前twitterで呟きましたが、目に見えている盤面でミスするのはミスの範疇に入らないと思っています。これはケアレスミスです、ケアレスミスは人間ですから起こります。これの発生は練習の積み重ねで低減できますが、絶対に0にはならない。単純な反復練習は対数関数的な伸びしか発生しません。
明らかな盤面で正解を見つけ出すのは基本ですが、枝葉です。強くなろうと思ったら枝葉に構うのではなく、木全体を見る必要があるなと感じています。
そもそもプレイというのはどのように選択されるのか。プレイの選択をモデル化してみると、様々な膨大なデータを引数として、自分という関数を通したときに出てくる返り値として見ることが出来ます。
今までプレイングということは受け取った情報をどう処理するのか、という点に注目が集まっていたように感じます。
そもそも情報を僕たちは全て受け取れているのでしょうか。「相手の考えうるデッキ構成」「盤面」「互いのハンド」「1t前の行動」「2t前の行動」「nt前の行動」etc、これら全て僕たちが受け取ることの出来る情報です。これら全てのデータを処理すれば最適解も出てくるかもしれません。しかし、5t前の相手の行動なんてなかなか思い出せない、場合によっては1t前ですら思い出そうとしても時間が足りません。
だから最終的に限定的な情報だけから結論を出している。
最適解を出すためのボトルネックはここかな、と。そもそも全ての情報を受け取っていないのだから、それをいくら弄り回しても最適解なんか絶対に出てこない。だからみかちゃんは「決め打ち」はある種最高の手段だと良く言います。情報を処理しきれないのだから統計的な確率から最適解を求めるのは合理的です。
でも、決め打ちでは超えられない壁があるのはもう感じています。
そこで考えを少し変えました。
MTGは一つの情報管理ゲームだ、と。
情報管理とは全ての情報を保管・管理することではなく。自分の限界を見極め、そこで優先順位をつけて管理することです。そしてこの情報管理能力は鍛えることが可能だと考えています。毎ターン、少しだけ相手の様子を伺ったり、前のターンの行動を思い出してみる。今まで漫然と流れて行き、意識していなかった情報に目を向けよう、これだけです。
意識するだけで見える世界は変わります。先ほどはボトルネックと言いましたが、この瓶の口は広げられます。
すごーく丸い言い方をすると、視野を広げよう、考えるのはそれからだ、ってことですね。
漫然と流れていくだけの情報は自分の頭の中を通すだけで随分クリアになります。情報を処理することではなく、受け取ることに意識を向けよう。
これがMTGで超えるための一つの壁じゃないかなと思いました。
とりあえず、効果は分からないけど、今度から実践してみます。
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そんなん当たり前だ、と思った人もいるかもしれないけど、壁は壁だと気付かないと、行き止まりと錯覚し壁沿いを歩くだけになるかもしれない。強くなりたいなー。
マジックの勝つための理論に関する話
2012年12月13日 MTGに関する話僕の意見ではなく、人の意見をまとめたもの。
ただ凄く面白かったので残しておこうかなと。
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[内容]マジックの勝つための理論とは何なのか?
そもそも実生活の上において、理論から構築された事象はほとんど無く。大体が実験、観測におけるデータの積み重ねでしかない。勿論積み重ねられたデータはとても重要だが、これだけだと他人に伝播することは出来ないから、そのために体裁として理論体系化が成される。
これが基本な以上、マジックではプレイテストから強さを勝率等のデータとして測った方が良い。
勿論、理論が必要な場合もあるが、それは他人がそれを使うときである。プレイテストの生のデータを渡すことなんかとても出来ないから、そこからモデルだけを取り出す必要がある。
理論はそういうために存在するわけで、勝つためとはまた別の話である。
強いカードは理論から生まれるわけではなく、使ってみて強い奴が強いわけだ。
理論や目的は調整を始めるためのスローガンとしては必要かもしれない。例えばカードチョイスとして、ヘルカイトが選ばれたことは「飛行が牙に強い」というのは勿論あったはず。ただしラクドスミドルに正式に採用され、GPを制したのはその理論があったからではなく、使ってみて勝率が良かった(強かった)からに過ぎない。
勝った奴が強い。これがマジックの常識である。
では、強くなるためにはどうしたらよいのか、そもそも理論を求めているのは根底に強くなるという目的があり、今までの話はこのことに対する解決策を何も示していない。
ここで一つの例を提示する。
常識を身につけろ、と言われる。常識というのは言語化出来そうで言語化が出来ない、これはあまりに数が膨大であったりそもそもファジィであったりするためだ。しかし、常識というのは言語化出来ないが、身体感覚で理解はできる。そういう身体感覚は言語化しようと頑張った人に自然と身につくものである。だからマジックにも黄金の理論は無いが、黄金の理論を知っている奴はいる。
たまに見受けられる、狭いコミュニティ内において強い人に収まろうとする人がいる。勝つことではなく、競技マジックをしたいだけの人だ。
承認欲求のためにマジックをしていると、勝つこと自体より、理論を優先したくなるときがある。何故かというと、マジック自体は必ずいつか負けてしまうものだから。そういうときに理論が存在しないと、自分のプレイ、デッキ選択、もろもろに言い訳が出来ない。
でもそんなのは負けたのを正当化するための理論であり、勝つための理論ではない。マジックの黄金の理論は説明するための理論ではないから、こういうときには使えない。
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[まとめ]
説明のための理論と勝つための理論は分けて考えるべきで、後者は言語化出来ないはず。
本来求めるべきは後者のはずだが、間違って前者を追い求めてしまうことは往々にして存在するため、そこは気をつけるべきである。
ただ凄く面白かったので残しておこうかなと。
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[内容]マジックの勝つための理論とは何なのか?
そもそも実生活の上において、理論から構築された事象はほとんど無く。大体が実験、観測におけるデータの積み重ねでしかない。勿論積み重ねられたデータはとても重要だが、これだけだと他人に伝播することは出来ないから、そのために体裁として理論体系化が成される。
これが基本な以上、マジックではプレイテストから強さを勝率等のデータとして測った方が良い。
勿論、理論が必要な場合もあるが、それは他人がそれを使うときである。プレイテストの生のデータを渡すことなんかとても出来ないから、そこからモデルだけを取り出す必要がある。
理論はそういうために存在するわけで、勝つためとはまた別の話である。
強いカードは理論から生まれるわけではなく、使ってみて強い奴が強いわけだ。
理論や目的は調整を始めるためのスローガンとしては必要かもしれない。例えばカードチョイスとして、ヘルカイトが選ばれたことは「飛行が牙に強い」というのは勿論あったはず。ただしラクドスミドルに正式に採用され、GPを制したのはその理論があったからではなく、使ってみて勝率が良かった(強かった)からに過ぎない。
勝った奴が強い。これがマジックの常識である。
では、強くなるためにはどうしたらよいのか、そもそも理論を求めているのは根底に強くなるという目的があり、今までの話はこのことに対する解決策を何も示していない。
ここで一つの例を提示する。
常識を身につけろ、と言われる。常識というのは言語化出来そうで言語化が出来ない、これはあまりに数が膨大であったりそもそもファジィであったりするためだ。しかし、常識というのは言語化出来ないが、身体感覚で理解はできる。そういう身体感覚は言語化しようと頑張った人に自然と身につくものである。だからマジックにも黄金の理論は無いが、黄金の理論を知っている奴はいる。
たまに見受けられる、狭いコミュニティ内において強い人に収まろうとする人がいる。勝つことではなく、競技マジックをしたいだけの人だ。
承認欲求のためにマジックをしていると、勝つこと自体より、理論を優先したくなるときがある。何故かというと、マジック自体は必ずいつか負けてしまうものだから。そういうときに理論が存在しないと、自分のプレイ、デッキ選択、もろもろに言い訳が出来ない。
でもそんなのは負けたのを正当化するための理論であり、勝つための理論ではない。マジックの黄金の理論は説明するための理論ではないから、こういうときには使えない。
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[まとめ]
説明のための理論と勝つための理論は分けて考えるべきで、後者は言語化出来ないはず。
本来求めるべきは後者のはずだが、間違って前者を追い求めてしまうことは往々にして存在するため、そこは気をつけるべきである。
プレイングに関する話
2012年12月6日 MTGに関する話 コメント (10)最近考えていることですが、「プレイングとは何なのか」。
普段使われているプレイングという言葉は「とある盤面において、最適(と思われる)行動を取ることができる」ことを刺していることが多いです。ただこれは局所最適解を求める能力であり、これをMTGの技量そのものと言って良いのか、というのが現在の疑問でした。
ゲームというのをプレイヤーが選択肢を取るごとに分岐していく木構造をしているという過程で考えてみました。既存のプレイングという表現はとあるノードからそこの子の葉を探索する行為で、そもそもそのノードに陥っていること事態が問題である、というのは考慮されていないような気がするわけです。
では、局所ではない最適解を求めるにはどうするかというと、一番の根に戻らないといけない。そこから全体を探索するには計算量が膨大過ぎて宜しくない。だから、マッチアップは構造として頭の中でイメージとして把握しておくのが一番良いかな、と思いました。
求められるのは局所最適を求めるような葉を探索し尽す能力ではなく、木構造全体をぼんやりとでも把握出来る能力。イメージする力かなーと。
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もう一つはKAKAOさんって上手いなーと思った話。
自分のプレイスタイルについて考えたことはあまり無いですが、比較的相手のハンドを推測して決めうちしていくタイプな気がしています。「○○あったら負けだーどっせーい」みたいな。
一般的な草の根だと、相手のハンドって何となく分かるんですよね。マナの残し方と前のターンの挙動と予想されるデッキレシピで、こう何となくですけど。
この行動をしたら、相手の行動で一番最良なのは○○のはず→○○をしてこなかった→では相手のハンドに○○は無い。これの繰り返しで相手のハンドを何となく把握していきます。
だから頻繁に相手がギリギリカウンターしたくなるような、除去を撃ちたくなるような、動きたくなるような行動をしてみて、今カウンターされないんじゃハンドにカウンターは無いなー、とか除去は無いなーみたいなことを思いながらプレイするんですが。
上手い人はこういう釣りに行く行動に全然釣られないんですよね。多分ギリギリのラインが僕が考えているのより更に奥まであるんでしょうね。つまり劣勢を跳ね除ける力というのは、引きが悪いときに立て直す力だけではなく。通常の駆け引きにおいても、相手より一歩深く進めるということで十二分に役に立っているのが良く分かった、という次第です。
プレイの向上は最初は先のように全体の構造を把握することで、そこから先は把握した構造の解像度を上げてく作業なのかなぁ、とも思ったわけです。
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ちょっと整理しきれていないのですが、「MTGが上手くなりたいなら練習しろ」と言いますが。その練習はやはり現在の自分の段階で手法が変わるな、と思いました。
普段使われているプレイングという言葉は「とある盤面において、最適(と思われる)行動を取ることができる」ことを刺していることが多いです。ただこれは局所最適解を求める能力であり、これをMTGの技量そのものと言って良いのか、というのが現在の疑問でした。
ゲームというのをプレイヤーが選択肢を取るごとに分岐していく木構造をしているという過程で考えてみました。既存のプレイングという表現はとあるノードからそこの子の葉を探索する行為で、そもそもそのノードに陥っていること事態が問題である、というのは考慮されていないような気がするわけです。
では、局所ではない最適解を求めるにはどうするかというと、一番の根に戻らないといけない。そこから全体を探索するには計算量が膨大過ぎて宜しくない。だから、マッチアップは構造として頭の中でイメージとして把握しておくのが一番良いかな、と思いました。
求められるのは局所最適を求めるような葉を探索し尽す能力ではなく、木構造全体をぼんやりとでも把握出来る能力。イメージする力かなーと。
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もう一つはKAKAOさんって上手いなーと思った話。
自分のプレイスタイルについて考えたことはあまり無いですが、比較的相手のハンドを推測して決めうちしていくタイプな気がしています。「○○あったら負けだーどっせーい」みたいな。
一般的な草の根だと、相手のハンドって何となく分かるんですよね。マナの残し方と前のターンの挙動と予想されるデッキレシピで、こう何となくですけど。
この行動をしたら、相手の行動で一番最良なのは○○のはず→○○をしてこなかった→では相手のハンドに○○は無い。これの繰り返しで相手のハンドを何となく把握していきます。
だから頻繁に相手がギリギリカウンターしたくなるような、除去を撃ちたくなるような、動きたくなるような行動をしてみて、今カウンターされないんじゃハンドにカウンターは無いなー、とか除去は無いなーみたいなことを思いながらプレイするんですが。
上手い人はこういう釣りに行く行動に全然釣られないんですよね。多分ギリギリのラインが僕が考えているのより更に奥まであるんでしょうね。つまり劣勢を跳ね除ける力というのは、引きが悪いときに立て直す力だけではなく。通常の駆け引きにおいても、相手より一歩深く進めるということで十二分に役に立っているのが良く分かった、という次第です。
プレイの向上は最初は先のように全体の構造を把握することで、そこから先は把握した構造の解像度を上げてく作業なのかなぁ、とも思ったわけです。
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ちょっと整理しきれていないのですが、「MTGが上手くなりたいなら練習しろ」と言いますが。その練習はやはり現在の自分の段階で手法が変わるな、と思いました。
プレイングの下地の話
2012年7月5日 MTGに関する話 コメント (9)http://52378.diarynote.jp/201207051954254285/
みつひでさんの記事
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「でも、どうせ運ゲーなんでしょう?」
カードゲームを知らない人はカードゲームをそう感じている。
でも、僕たちはもうその台詞はMTGというカードゲームの一つの側面しか捉えていないことを知っている。MTGは全てのカードにマナコストが指定されてあり、引いたカードが効果を発揮するにはそれに応じた土地のような様々なコストがある。だから、僕たちは運ゲーを乗り越えてゲームに勝つための様々な手段を模索する。
ある人はメタゲームを研究し、それに見合ったデッキを構築しようとする。それも一つの手段だ。皆大会前夜には今の環境を考え、様々なデッキを意識しながらデッキを作り、サイドボードを練る。そして、会場入りしてから、会場を見渡して、数枚カードを入れ替えたりするかもしれない。
大会が始まり、ペアリングが貼られ、席につき、自分と相手のデッキをシャッフルし、先攻後攻を決める。ここからはカードを引き、プレイしていくだけだが。ここからは全て運任せ……なんてそんなこともなく、まだまだ技術介入の余地はある。所謂、プレイングだ。
マジックを初めてもうすぐ4年目になろうとするんだけど、プレイングというのは未だに未知の領域が多い。デッキ構築に関しては、様々な理論が記事にされていたり、今のメタゲームを的確に読み、それに見合ったデッキの、ノウハウとまではいかなくとも様々な調整録が残っている。
しかし、プレイングの記事となると、途端に数が少なくなる。皆興味が無いはずは無いのに。実際マジックを始めたての頃に正しいプレイングというものが分からなくてネットでぐぐったりしたので、経験としてある。どんな環境でも通ずるセオリーのようなプレイングの記事は少なすぎる。
三年前のマジックを始めたばかりの右も左も分からない頃の僕と比べて、今の僕は明らかにプレイングが向上したように思う。しかし、それは証明出来ない。昨夜ツイッターでまひろっちと会話したが、プレイングを数値のような客観的指標にするには、大きな困難が伴う。
マジックは自分と相手のドローの組み合わせで無数のシチュエーションが生まれる。それら全てを精査しながら指標化するのは、知能をIf Doの組み合わせで表現していくかのような滑稽ささえ伴う。
そこで今回のみつひでさんの記事である。
マジックのプレイングをセオリーの積み重ねで表現出来ないか、というのは、非常にわかりやすい。確かにマジックを始めた頃の自分と比較し、今の僕はみつひでさんが書かれていた具体例を、言語していなかったにせよ、感覚で理解していた。つまり、これらを学習したこととプレイングの成長とは密接な関係があるのではないか。
このようなセオリーも条件を細かくしていけば量の爆発は防げないが、逆に抽象化をはかることにより、コンパクトにまとめることは出来ると思う。
《思考囲いはセラピーの感覚で打つ》
思考囲い、強迫、コジレックの審問、蔑みと無数にハンデスは存在するが、これらは一律とハンデスとまとめていけばコンパクトになる。除去、ファッティ、マナクリとマジックには歴史を通じて存在するカード群がまとめられている、これらに関連付けたセオリーをまとめていく、こうしてセオリーのライブラリは濃度を下げないまま数を増やせる。
もしくはもっと具体的にデッキにおけるセオリーでもいいかもしれない。
勿論、このまま英単語を覚えるようにセオリーを覚えても仕方がない。そのセオリーの背景となる理論を一緒に学ぶのはマジックというゲームの理解に大きく役立つ。少なくとももっと細かい状況に応用していける。
現状、そのようなセオリーはある程度意識はされているが、広まり方はネットを介さずに口伝のような気がする。つまり、ある程度セオリーというのを理解し、言語化出来た人が身近な友人に話すのである。
何故、日本勢は勝てなかったのか、という懐かしい記事がある。それの中で触れられていたことに、日本のコミュニティの閉鎖化というものがあったことを覚えている。強い人たちのグループでは当たり前のセオリーも、セオリーに関する記事はネット上に上がらない以上、下のグループには広まらない。そのようなところもなかなか新しい世代が生まれないと言われる所以かもしれない。
実際の話をすると、そういうセオリーは多分皆無意識化に存在していて、なかなか言語化することは出来ないと思います。みつひでさんはよくあんなに一杯出たなーと尊敬するくらい。
でも、だからこそ、たまにふっと頭に浮かんだら、DNなりコメントなりに残して、誰かが読める形にすれば、そこで誰かしらの目に留まれば、コミュニティの財産になっていくと思います。
みつひでさんの記事
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「でも、どうせ運ゲーなんでしょう?」
カードゲームを知らない人はカードゲームをそう感じている。
でも、僕たちはもうその台詞はMTGというカードゲームの一つの側面しか捉えていないことを知っている。MTGは全てのカードにマナコストが指定されてあり、引いたカードが効果を発揮するにはそれに応じた土地のような様々なコストがある。だから、僕たちは運ゲーを乗り越えてゲームに勝つための様々な手段を模索する。
ある人はメタゲームを研究し、それに見合ったデッキを構築しようとする。それも一つの手段だ。皆大会前夜には今の環境を考え、様々なデッキを意識しながらデッキを作り、サイドボードを練る。そして、会場入りしてから、会場を見渡して、数枚カードを入れ替えたりするかもしれない。
大会が始まり、ペアリングが貼られ、席につき、自分と相手のデッキをシャッフルし、先攻後攻を決める。ここからはカードを引き、プレイしていくだけだが。ここからは全て運任せ……なんてそんなこともなく、まだまだ技術介入の余地はある。所謂、プレイングだ。
マジックを初めてもうすぐ4年目になろうとするんだけど、プレイングというのは未だに未知の領域が多い。デッキ構築に関しては、様々な理論が記事にされていたり、今のメタゲームを的確に読み、それに見合ったデッキの、ノウハウとまではいかなくとも様々な調整録が残っている。
しかし、プレイングの記事となると、途端に数が少なくなる。皆興味が無いはずは無いのに。実際マジックを始めたての頃に正しいプレイングというものが分からなくてネットでぐぐったりしたので、経験としてある。どんな環境でも通ずるセオリーのようなプレイングの記事は少なすぎる。
三年前のマジックを始めたばかりの右も左も分からない頃の僕と比べて、今の僕は明らかにプレイングが向上したように思う。しかし、それは証明出来ない。昨夜ツイッターでまひろっちと会話したが、プレイングを数値のような客観的指標にするには、大きな困難が伴う。
マジックは自分と相手のドローの組み合わせで無数のシチュエーションが生まれる。それら全てを精査しながら指標化するのは、知能をIf Doの組み合わせで表現していくかのような滑稽ささえ伴う。
そこで今回のみつひでさんの記事である。
マジックのプレイングをセオリーの積み重ねで表現出来ないか、というのは、非常にわかりやすい。確かにマジックを始めた頃の自分と比較し、今の僕はみつひでさんが書かれていた具体例を、言語していなかったにせよ、感覚で理解していた。つまり、これらを学習したこととプレイングの成長とは密接な関係があるのではないか。
このようなセオリーも条件を細かくしていけば量の爆発は防げないが、逆に抽象化をはかることにより、コンパクトにまとめることは出来ると思う。
《思考囲いはセラピーの感覚で打つ》
思考囲い、強迫、コジレックの審問、蔑みと無数にハンデスは存在するが、これらは一律とハンデスとまとめていけばコンパクトになる。除去、ファッティ、マナクリとマジックには歴史を通じて存在するカード群がまとめられている、これらに関連付けたセオリーをまとめていく、こうしてセオリーのライブラリは濃度を下げないまま数を増やせる。
もしくはもっと具体的にデッキにおけるセオリーでもいいかもしれない。
勿論、このまま英単語を覚えるようにセオリーを覚えても仕方がない。そのセオリーの背景となる理論を一緒に学ぶのはマジックというゲームの理解に大きく役立つ。少なくとももっと細かい状況に応用していける。
現状、そのようなセオリーはある程度意識はされているが、広まり方はネットを介さずに口伝のような気がする。つまり、ある程度セオリーというのを理解し、言語化出来た人が身近な友人に話すのである。
何故、日本勢は勝てなかったのか、という懐かしい記事がある。それの中で触れられていたことに、日本のコミュニティの閉鎖化というものがあったことを覚えている。強い人たちのグループでは当たり前のセオリーも、セオリーに関する記事はネット上に上がらない以上、下のグループには広まらない。そのようなところもなかなか新しい世代が生まれないと言われる所以かもしれない。
実際の話をすると、そういうセオリーは多分皆無意識化に存在していて、なかなか言語化することは出来ないと思います。みつひでさんはよくあんなに一杯出たなーと尊敬するくらい。
でも、だからこそ、たまにふっと頭に浮かんだら、DNなりコメントなりに残して、誰かが読める形にすれば、そこで誰かしらの目に留まれば、コミュニティの財産になっていくと思います。