デッキ構築論に関する話
2015年5月26日 TCG全般MTGはそんなにやっていませんが、MTGを考えることは好きです。
----------
◇はじめに
デッキ調整を他人とする場合に、Aというカード(デッキ)が強いという人とBというカード(デッキ)が強いという二人の人が現れたとする。このとき第三者であるCさんはどちらを信用すれば良いのだろうか。
環境には様々なタイプのデッキが存在し、その中から強いデッキを見出そう(作ろう)としたときに上記のような判断を求められる場合は多く存在する、このとき何をもって判断すれば良いのか。
そういった良し悪しの議論が難航する要因について考え、同時になるべく議論が建設的になる意見の出し方について自分の考えをまとめる。
◇「AだからB」であるということの二つの観点
議論をする上で相手の意見に反対する(間違っていると指摘する)ことは避けられない。
そんな他者からの"間違っている"という指摘には二つの方向性がある。
上記のように使用デッキやカードで意見が真っ向から分かれる場はMTGでは度々存在するように思える。そういった場の多くは意見の投げっぱなしではなく、各人が出来る限り自分の意見を伝えようと「○○だから××が強い」という形で論理的な体裁を取ろうと努力している。
そんな中で議論が建設的に進むパターンと言いっぱなしで終わってしまう2つのパターンがあると思っている。
その2つのパターンが以下だ。
①論理的矛盾(欠如)
「○○だから××が強い」という○○から××が演繹出来ないパターン。
極端な具体例をあげると、「稲妻の一撃は相手クリーチャーを除去出来るので緑単信心に強い」といったパターン。
上記例では稲妻の一撃は緑単信心相手に効率良く倒せるカードがほぼ存在しないことから、あまり効率的なカードで無いというのは緑単信心のデッキ構成から反論することが出来る。このように晶かな証拠をもって反論することが出来るのが①のパターン。
これは両方に共通の見解をもって議論を進めることが出来るため、建設的な議論を出来る機会が多い。
上記は良いパターン。
逆に議論が不毛で言いっぱなしで終わるパターンは以下だ。
②そもそも前提が妥当ではないパターン
「○○は××に強い」のうち、そもそも××がいねーよ、というパターン。
「赤白アグロのエンチャントにドロモカチャームが強い」という内容。この反論としては、ドロモカチャームが本当に赤白アグロに強いのか、という議論の方向性とそもそも赤白アグロがいないよね、という二つの議論が並行して走る可能性がある。
このパターンがあまり建設的な議論が出来ず、まぁ人それぞれだよね、という濁した結果で終わってしまう気がしている。
◇デッキ構築の考え方
両者の違いがどこに存在するかというと、「そもそも環境にどのようなデッキがいるのか」という前提条件が無いところから始まっているのが原因となる。
①ですら、緑単信心は環境にいるという暗黙の前提が運良く共有出来ているから議論が進んでいるに過ぎない。
「環境にこのような特性のデッキがいる」この前提が共有出来たとき初めて、
「Aというカードが強い」という議論に入ることが出来る。
この前提の無いままではあまり有効な議論をすることも出来ず説得力もない。
だからデッキや採用カードを論じるときは、前提となる自分の考える環境を定義するべきだと考えている。
こうすることで、自分の考えと違うときに①の論理的矛盾なのか、そもそも前提や想定が違う(間違っている)のかという判断が可能となる。
◇環境定義の重要性
上記が自分の考えだが、その中で瀬畑さんの調整録はそういった点が良いなと思った。
http://www.sanc.jp/news/0300.html
「Aというカードが強いので、それとそれに対するアンチカードが存在する環境」というのが瀬畑さんの定義だ。
そこからデッキの採用カードという形になっているので、その正しさは置いておいて瀬畑さんのデッキを議論をする上で混乱は起こりにくい。
人は瀬畑さんの環境定義に反対することも、採用カードの論理性に反対することも可能となっている。意識すれば両者を混同して議論することを避けられる。
瀬畑さんの調整録はその点が非常に読みやすさがあった。
内容の正しさ以前に、議論を出来るデッキ構築論にするためには環境定義が必須だと考える。AとBどちらが優れているかを考えるうえでは、まず環境定義をどうするかということを前提に置かないといけない。
デッキ構築論はそうやって構成されるべきだと考える。
----------
◇はじめに
デッキ調整を他人とする場合に、Aというカード(デッキ)が強いという人とBというカード(デッキ)が強いという二人の人が現れたとする。このとき第三者であるCさんはどちらを信用すれば良いのだろうか。
環境には様々なタイプのデッキが存在し、その中から強いデッキを見出そう(作ろう)としたときに上記のような判断を求められる場合は多く存在する、このとき何をもって判断すれば良いのか。
そういった良し悪しの議論が難航する要因について考え、同時になるべく議論が建設的になる意見の出し方について自分の考えをまとめる。
◇「AだからB」であるということの二つの観点
議論をする上で相手の意見に反対する(間違っていると指摘する)ことは避けられない。
そんな他者からの"間違っている"という指摘には二つの方向性がある。
上記のように使用デッキやカードで意見が真っ向から分かれる場はMTGでは度々存在するように思える。そういった場の多くは意見の投げっぱなしではなく、各人が出来る限り自分の意見を伝えようと「○○だから××が強い」という形で論理的な体裁を取ろうと努力している。
そんな中で議論が建設的に進むパターンと言いっぱなしで終わってしまう2つのパターンがあると思っている。
その2つのパターンが以下だ。
①論理的矛盾(欠如)
「○○だから××が強い」という○○から××が演繹出来ないパターン。
極端な具体例をあげると、「稲妻の一撃は相手クリーチャーを除去出来るので緑単信心に強い」といったパターン。
上記例では稲妻の一撃は緑単信心相手に効率良く倒せるカードがほぼ存在しないことから、あまり効率的なカードで無いというのは緑単信心のデッキ構成から反論することが出来る。このように晶かな証拠をもって反論することが出来るのが①のパターン。
これは両方に共通の見解をもって議論を進めることが出来るため、建設的な議論を出来る機会が多い。
上記は良いパターン。
逆に議論が不毛で言いっぱなしで終わるパターンは以下だ。
②そもそも前提が妥当ではないパターン
「○○は××に強い」のうち、そもそも××がいねーよ、というパターン。
「赤白アグロのエンチャントにドロモカチャームが強い」という内容。この反論としては、ドロモカチャームが本当に赤白アグロに強いのか、という議論の方向性とそもそも赤白アグロがいないよね、という二つの議論が並行して走る可能性がある。
このパターンがあまり建設的な議論が出来ず、まぁ人それぞれだよね、という濁した結果で終わってしまう気がしている。
◇デッキ構築の考え方
両者の違いがどこに存在するかというと、「そもそも環境にどのようなデッキがいるのか」という前提条件が無いところから始まっているのが原因となる。
①ですら、緑単信心は環境にいるという暗黙の前提が運良く共有出来ているから議論が進んでいるに過ぎない。
「環境にこのような特性のデッキがいる」この前提が共有出来たとき初めて、
「Aというカードが強い」という議論に入ることが出来る。
この前提の無いままではあまり有効な議論をすることも出来ず説得力もない。
だからデッキや採用カードを論じるときは、前提となる自分の考える環境を定義するべきだと考えている。
こうすることで、自分の考えと違うときに①の論理的矛盾なのか、そもそも前提や想定が違う(間違っている)のかという判断が可能となる。
◇環境定義の重要性
上記が自分の考えだが、その中で瀬畑さんの調整録はそういった点が良いなと思った。
http://www.sanc.jp/news/0300.html
「Aというカードが強いので、それとそれに対するアンチカードが存在する環境」というのが瀬畑さんの定義だ。
そこからデッキの採用カードという形になっているので、その正しさは置いておいて瀬畑さんのデッキを議論をする上で混乱は起こりにくい。
人は瀬畑さんの環境定義に反対することも、採用カードの論理性に反対することも可能となっている。意識すれば両者を混同して議論することを避けられる。
瀬畑さんの調整録はその点が非常に読みやすさがあった。
内容の正しさ以前に、議論を出来るデッキ構築論にするためには環境定義が必須だと考える。AとBどちらが優れているかを考えるうえでは、まず環境定義をどうするかということを前提に置かないといけない。
デッキ構築論はそうやって構成されるべきだと考える。
コメント